●わたしの証
3月のある雪の降る夜に、峠道でクルマを運転していて突然の強烈な吹雪に遭(あ)いました。
谷間の下から吹き上げる吹雪は、視界を一瞬で奪いました。
豪雪地帯で、生まれ育ち運転歴が30年を越えるわたしですが、峠道でのこのような強烈な吹雪は、はじめての経験でした。
フロントガラスが、雪で紙をはったように真っ白になり、案内標識もガードレールも路面さえも一瞬で全く見えなくなりました。
しかも下り坂のカーブで、スピードが出ているにもかかわらず後続車があり、追突事故の可能性を考えると急ブレーキは踏めません。
左カーブなので真っ直ぐに進むと反対車線にはみ出し、対向車と正面衝突です。
また、左に適当にハンドルを切るとガードレールにぶつかります。
緩やかにブレーキをかけてスピードを落とし、吹雪の突風がくる前に見えていた景色をもとに予測でハンドルをおおよそ左に切りました。
追突、正面衝突があっても、またはガードレールにぶつかっても仕方がないとあきらめ全てを主なる神イエス・キリストにゆだねたとき、吹雪がやや弱まり、クルマもやっとのことで止まりました。
主なる神イエス・キリストの導きにより、左車線のガードレールすぐ近くの理想的な場所で止まっていました。
それは、咄嗟(とっさ)の祈りの形式をこえた全身全霊を捧げた神への嘆願に対する答えでした。
後続車もすぐ後ろで止まっていました。
それから、まるで歩くような速さで進みました。
もちろん、それを遅いと思う人は、誰もいなかったと思います。
後ろから、遅いとクラクションを鳴らすクルマも、吹雪の合間に視界が開けたときに追い越すクルマもありませんでした。
吹雪のために視界が悪すぎて、誰が運転してもそれしかできなかったのです。
むしろ、先導役を務めているわたしに感謝さえしているかもしれませんでした。
わたしの後ろには、とても長いクルマの列ができていました。
わたしは、ハザードランプ(両側にウインカーが点滅する緊急を表示するランプ)をつけながら先導役を務めました。
それから、しばらくして一台の外車に追いつきました。
そのクルマには、リヤフォッグランプが装備されていました。
これは、今回のような吹雪や霧の時にストップランプよりも強烈に赤く点灯することにより、後続車に追突しないように注意をうながすものです。
わたしは、この前を走るクルマのフォッグランプのおかげでそのあと運転が格段に楽になりました。
たった一個の電球でできたとても簡単な構造のこのランプが、事故を防ぎ多くの人のこれからの人生と命を救ったのです。
以上は、わたしたちの人生と教会活動にたとえられるできごとでした。
主の教会の福音と真理を知らない人たちの人生は、あたかも視界のきかない吹雪の中を進むかのようです。
心細く不安と恐怖がいつも取り巻いています。
そのような状況の中では、しっかりと行き先を示してくれる信頼のおける存在が必要です。
わたしは、主の証人としての良き模範となり、良き父親・神権者・ホームティーチャーになろうと思いました。
安心してついて行ける人になろうと思ったのです。
わたしは、今後もしっかりと福音を学び、それに根付いた実践をとおして、しっかりとした証を得て行こうと思います。
福音とは、神の偉大な救いの計画のことであり、その中心となるものは主なる神イエス・キリストの贖いです。
それは、簡潔明瞭な真理です。
そこにしっかりとした証があれば、御霊は人の心を奮い立たせ不安や恐怖を一掃します。
イエス・キリストの御名により証します。アーメン
▼日本札幌神殿の建設に関するホームページを新設しました。
サイト名は、
『 ドキュメント 末日聖徒イエス・キリスト教会 札幌神殿建設』
http://sapporo.hartymonty.net/
です。
動画で神殿用地の様子も観ることができます。
応援をよろしくお願いします。
●慈愛
うふふのぷ様から
『■一番大切なものは慈愛です。【末日聖徒イエス・キリスト教会は回復された教会】』
の記事に対して、以下のようなコメントをいただきました。
「希望は自分を愛する事とありますが、私は自分が好きになれません。どうすれば、自分を好きになれますか?」
この質問にある「自分が好きになれない」という悩みは、普段口に出す人はいませんが、実は多くの人が心の底にかかえている深刻な悩みです。
ここでは、神の福音(教え)に照らし合わせてお答えするとともに、後半は心理学的な見地からもお答えします。
まず、主なる神のみ言葉である聖句から、学びましょう。
偽善売教(ぎぜんばいきょう:お金もうけのために間違った教えを広めること)で有名なパリサイ人の律法学者は、イエス・キリストを困らせようと以下のような質問をしています。
「先生、律法の中で、どのいましめがいちばん大切なのですか。」
イエスは言われた、
「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ。』
これがいちばん大切な、第一のいましめである。
第二もこれと同様である、
『自分を愛するようにあなたの隣(とな)り人を愛せよ。』
これらの二つのいましめに、律法全体と予言者とが、かかっている。」
(『新約聖書』マタイによる福音書 第22章 36節〜40節)
まず第一の戒めである、「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ。」は、主なる神イエス・キリストが救い主であるという証(あかし)をしっかりともち、心から信頼して愛することです。
次に、第二の戒めですが、「自分を愛するようにあなたの隣(とな)り人を愛せよ。」とあります。
ここにある「自分を愛するように」とは、「自分が、神の子であることを確信して自分を大切にして愛する。」という意味です。
同様に、隣(とな)り人すなわち自分以外の全ての人も神の子として大切に尊重して愛するのです。
神の子であるわたしたちの信仰活動の究極的な目的は、神より与えられた神のようになる可能性を大切にし、神のようになることを目指して努力を続けることです。
慈愛(じあい:愛し、慈(いつく)しむこと)に満ちた神は、わたしたち神の子が、神ご自身と同じように幸せになることを望んでおられます。
神の慈愛(じあい)は、究極的には、わたしたちが神と同じ最高の幸せをつかむことなのです。
最後の、「これらの二つのいましめに、律法全体と予言者とが、かかっている。」とは、キリスト教会の全ての律法は、慈愛を育むためにあり、教会の指導者である大管長会、12使徒会の預言者(よげんしゃ:神の言葉を預(あず)かって伝える人)たちは慈愛について教え、慈愛を実践するための召しであるということを教えています。
地上に肉体を受けた人は、皆神の子であり、素晴らしい人ばかりです。
でも、自分を愛せない人が本当に多いのです。
なぜでしょう。
一般に自分を愛せない人は、自分に対してダメだと思う自己嫌悪(じこけんお:自分を悪く思う気持ち)の感情を強くもっています。
人間は、だれでも不完全ですから、生まれてから今までに多くの失敗や過(あやま)ちを犯(おか)しています。
そのことが積み重なって苦しみます。
でも、そのような感情はとても正常な感情と言えます。
わたしたちは、この世に生まれてくる前は「前世(ぜんせ)」という世界にいました。
そして、この地上に肉体を受けて生まれ、多くの試練の中で勉強して成長することを期待したのです。
ですから、多くの失敗や過ちを犯せば誰でも程度の差はあれ自己嫌悪に陥(おちい)ります。
極端な自己嫌悪に陥(おちい)りやすい人の多くは、厳しいしつけの中で育ってきた傾向があります。
多くの人が子供の頃から、「ダメ!」「悪い子」、ひどいときには「バカ!」「アホ!」と怒鳴られてしつけされてきました。
これが、親の熱心な教育として一般的に行われています。
子供は、自分が悪いのでどんなことを言われても仕方がないと思いますし、親も子供が悪いのでそれが当たり前と思っています。
なぜなら、親も子供の時に同じように厳しく怒鳴(どな)られてしつけられたからです。
かつて軍国主義だった日本の傷跡は、このように残っています。
子供は不完全であやまちを犯します。
そして、親の愛情を信じてのびのびと生きているのです。
でも、親の言うことを聞かないと愛情を獲得できないと思えば、弱い立場の子供は、そのような厳しいしつけも受け入れなければなりません。
ここで、大人が、もし他人から「バカ!」「アホ!」と怒鳴(どな)られたらどうなるでしょう。
激しく落ち込むか、怒鳴られた相手とは絶交をするでしょう。
これで分かるように、大人でも耐えられないことを、まだ人格もできあがっていない不完全な子供にしているのです。
「潜在意識(せんざいいしき:心の奥底にある意識)」という言葉を聞いたことがあると思います。
この潜在意識の発見は、心理学上の偉大な発見と言われています。
この潜在意識は、判断力を持ちません。
心に浮かんだ、良いこと悪いことをそのままの感情で潜在意識は全てため込んで行きます。
潜在意識は、生まれてから今までの全ての状況とその場での感情を記憶しているといわれています。
それらの集大成で、人は無意識に行動しているというのが、心理学が教えているところです。
そのようなわけで、生まれてから今までにどのようなことに会い、それに対してどのように思い、何を言い、どう行動したかによって、今後の思いと言動が左右されます。
以上のことから分かるように、まだ未熟で判断力に乏しい子供は、些細(ささい)なことでダメな人間だと決めつけられると、本当にダメだと信じてしまうのです。
自分をダメだと信じてしまうと、何事も成功するわけがないと信じてしまい無気力になります。
生育歴に関して説明しましたが、親子の関係以外でも、心に傷がつくことはたくさんあります。
学校での友達や教師との間でも、きっといろいろあったでしょう。
あなたが社会人であれば、社会に出てからは、本当にたくさんのことがあったと思います。
教会員の方が、たとえキリストの愛の実践を学んでいても不完全な人間である以上、何らかの衝突は避けられません。
自分を愛せない気持ちがあるとすれば、このような他人から傷つけられて、自分がダメな人間だと思うことが、大きな原因の一つと考えられます。
また、他から卑下(ひげ:バカにされること)されると、自分はダメな人間だと思うと同時に、たとえ子供といえども自尊心が傷つけられて相手に対する怒(いか)りと復讐心(ふくしゅうしん)が燃えだします。
でも、そのような怒りと復讐は、自分が悪いのだからと思い心の奥底にしまい込みます。
本当は、頭にくることなのですが、「一番悪いのは自分である。」「しかし、そのことにやさしく対応せずに厳しく怒鳴るのは相手が悪い。」「どちらにしても人を憎むことは良くない。」などの思いが複雑にからみ、結局そのように怒(おこ)ることも自己嫌悪をいだく原因となります。
このように人は、無意識の領域である潜在意識の領域で複雑な葛藤(かっとう:心の悩み)をしています。
神の子である人間は、神の属性(ぞくせい)である慈愛と良心を心の奥底にもっています。
ですから、人を憎むことに心から満足することができないのです。
潜在意識は、教会の教えでは霊そのものと言えるでしょう。
無神経に厳しくしかることは、互いの霊を傷つけます。
潜在意識にたくわえられたことは、やがて吹き出すように言動として現れます。
いつも、やりきれない問題を社会のせいだと思って憎んでいると、やがて「社会全体」の象徴である「不特定多数の人々」を憎むようになり、連続殺人のようなことをしてしまいます。
先日あった連続通り魔殺人事件では、犯行中の犯人は笑顔で不特定多数の人々を殺し続けました。
では、わたしたちは潜在意識にすべて左右されるのでしょうか。
意識での「気づき」があれば、それは解決できます。
自分の過去を冷静に振り返ってみましょう。
大切なことですが、生育歴でおきた問題がたくさんあったとしても親への感謝と尊敬を忘れてはいけません。
子供を産み、育てることは本当に大変なことです。
たとえ、厳しすぎて大変な親だったとしても、あなたを思う熱心さゆえのことだったのです。
あなたにとって、血の通ったかけがえのないたった一人の父と母を愛し、大切に敬(うやま)ってください。
有名なモーセの十戒には、
「あなたの父と母を敬(うやま)え。これは、あなたの神、主が賜(たまわ)る地で、あなたが長く生きるためである。」
(『旧約聖書』出エジプト記 第20章 12節)
とあります。
父母への感謝は、自分自身の成長と深く関係します。
自分自身が、生涯幸せに生活するために大切なことなのです。
その親やその他自分と関わった人々への思いを大切にしながら、今までの自分を振り返ってみましょう。
高慢(こうまん)な心を取り除き、謙遜(けんそん)になり神と隣人に感謝するときに、人生の喜びを感じるようになります。
そして、本当の自分に気づき、きっと自分を大切にして愛するようになることでしょう。
あなたの心に平安がありますように心より祈念いたします。
イエス・キリストの御名により アーメン
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●慈愛
今までを振り返ってみて自分は、どれだけ進歩したのかと考えてみました。
家族・親類のことや職場でのこと、教会でのことなど、たくさんのことが思い出されました。
そして、近頃が、今までになく人生でとても忙しい時期だったことに気づきました。
その忙しかったことのほとんどが、試練ともいうべきことばかりで、つらく時には不快なことでした。
でも、感じることは結局、感謝の念だけです。
若い頃は、どうしてわたしばかり嫌なことが続くのだろうと思うこともありました。
やがて、教会で主なる神イエス・キリストの福音を学びながら試行錯誤をして行くうちに、その試練を乗り越える真理を御霊を通して知るようになりました。
今までにたくさんの真理を学んできたからこそ、この最近の多くの試練に耐えることができたのだと分かりました。
わたしのこの今までを振り返ってみたいと思った本当の気持ちは、その試練を乗り切ったあとに得た神様からの恵みを数え上げたいと思ったからなのです。
この世では、必ずしも物事が首尾良く行くことが神の目的ではないことを知っています。
人が神からの試練を通して何を学ぶかが肝要です。では、何を学ぶのでしょう。
それは、福音の中で最も大切なものの一つである慈愛です。
神が確かに生きていることを知り、まずその神を愛し、さらに隣人を愛することを学ぶのです。
「信仰」、「希望」、「慈愛」の3つが大切であることは、みなさんがご存じのことです。(『新約聖書』コリント人への第一の手紙 第13章 13節)
「信仰」は、神を愛することから始まります。
「希望」は、自分自身を愛していなければ、しっかりともつことができません。
「慈愛」は、自分以外の他のもの、すなわち神と隣人を愛することです。
主なる神は、さらに「敵をも愛しないさい。」と言われました。(『新約聖書』マタイによる福音書 第5章 44節)
これは、場合によっては難しいことでしょう。
自分を傷つける人を愛することは、わたしにも時には難しいことです。
怒りの思いが頭の中をめぐり続けることがあるかもしれません。
でも、そのような思いが本当に楽しいのでしょうか。
むなしく、暗く、悲しくて幸福とは反対のものです。
そのような思いに占領されてしまえば、霊は自ら復讐に燃えた悲しい人生を歩むようになります。
そのように考えるとわたしは、やはり人を赦(ゆる)し愛することでしか満足ができません。
その慈愛という力を身につけるために、今までに多くの犠牲を払って努力をしてきたのです。
神は、わたしの思いを受け止めてくださいました。
とるに足らないわたしが、主なる神から祝福を受け続けてきた最大の理由は、神を愛し人を愛してきたからだと思います。
慈愛という賜をみがくには、時には厳しい精神的な作業が必要です。
そのような力を得られるまで祈り続けてください。
みなさんが、神から強固で霊的な励ましが受けられるようにお祈りいたします。
イエス・キリストの御名により アーメン
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●わたしの証
わたしの父は84歳です。
今年(2008年)の1月末に脳卒中で倒れました。
脳卒中は、脳内の血管が詰まる脳梗塞と、その血管が破裂する脳出血とに分かれますが、わたしの父の場合は後者の方でした。
20日ほど前に会ってとても元気だった父は、右側が半身不随となり、意識がもうろうとした状態で、ベッドに横たわっていました。
そして呼吸が乱れ、心電図が示す心臓の動きも微妙に不安定でした。
わたしは、教会員ではない兄から許可をもらい、さっそくイエス・キリストの御名によって神権の癒しの儀式を施しました。
その儀式の中で父に対して、末日における主の御業に働く神権者である息子を大切に育てたことの功績により、神様からの導きと祝福が十分に与えられるとの言葉が与えられました。
わたしの家族は、昨年の11月に肺ガンの宣告を受けたこの父に対して、いつも、健康で幸せであるようにお祈りをしていました。
でも、今の父の状態が神様から与えられた現実です。
自分の父が、これほど苦しい試練を受けるとは思いませんでしたが、御霊をとおして神様の愛ある導きを知るのにさほど時間はかかりませんでした。
それから幾度か見舞いに行きましたが、父は、ベッドの横にわたしが立つと、「こんなになってしまった。」と言わんばかりに声にもならないうめき声を出して、すがるようにわたしの手を握り涙を流します。
あの気丈で、店の経営者としてたくましく頑張ってきた父の初めてながす涙でした。
わたしは、父の手を握りながら絶望と悲嘆にしずんだ心を癒すために大切な話をすることにしました。
主なる神イエス・キリストの偉大な救いの計画と試練の意味について簡単に分かりやすく伝えました。
そして父は、わたしが差し出したイエス・キリストの絵をづっと見つめていました。
その時に、この世の本当の宝が何かがよく分かりました。
親子の愛の大切さについて、これほど深く考えたことはありません。
そして、この世の名誉や財産とは比較することができないほど福音が大切なものであることも分かりました。
父が、昔からの先祖から続く宗教を大切にして、毎日お参りをしながら主の道に背を向けて老衰して行くのと、このような状況の中で親子のきずなを深め主の福音を知るのとでは、どちらがこの試しの生涯で大切なのかは明白なことでした。
本当の意味での父の幸せを願う祈りを、確かに神様は聞いてくださったのです。
「わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっていると主は言われる。」『旧約聖書』イザヤ書 第55章第8節
イエス・キリストの御名により証します。アーメン
●コラム
2008年6月8日、安息日である日曜日の頃、東京の秋葉原で通り魔殺人事件が起こりました。
今年に入ってから1月に品川で、3月には土浦で同様の通り魔殺人事件が起きています。
今の時代を反映した、これからも続く可能性のある恐怖の事件です。
さて、この事件の内容ですが、犯人のKは、2008年6月8日(日)昼の12時半頃、東京の電器製品とゲーム・アニメの街である秋葉原にて、レンタカーの2トントラックで歩行者天国にいた3人をひきます。
そのあと、トラックにひかれたケガ人を介抱している人を含めて、刃渡り13センチのサバイバルナイフで次々と通行人を斬りつけて行きました。
そして、男性6人、女性1人の7人が殺され10人が重軽傷を負う事件となりました。(学生、会社員、警部補等合計17人の被害者です。)
追いかけた警官が、ピストルを犯人に向けたため、犯人はおとなしくなり取り押さえられました。
犯人は、静岡県の自動車部品製造会社で派遣社員として働いていました。
犯行については、2〜3日前に決意しており、秋葉原が日曜日は歩行者天国になることも知っていました。
犯行当日、携帯電話でネットのサイトに犯行を宣言するメールを数通送っていますし、友人にも意味不明のメールを送っています。
犯人のKは、犯行後の警察での取り調べで、
「生活に疲れた。」
「世の中がイヤになった。」
「誰でも良かった。」
と語っています。
どうして、このような惨殺(ざんさつ)事件になったのでしょう。
犯人のKは、東北でトップの進学高校で学んでいます。
でも、小学生の時からキレやすい性格だったようで、小学時代の文集で自らを「短気、強情、鈍感、ドジ」と表現しています。
成績は優秀で進学高校に入学しましたが、自動車が好きで自動車関係の短期大学に入学したあと就職しました。
しかし、親の借金もあり、その後お金に困る生活が続いて家賃も滞納する有様でした。
アパートの部屋には、同人誌系のアニメ誌がわずかにあるばかりで他には何もなく、友人は、典型的な秋葉系のロリコンオタクだったと証言しています。
犯行の3日前に、職場で自分の作業着が無いことに腹を立てて、それ以降は、会社に出勤していませんでした。
通り魔的殺傷事件には、一般的な犯人像があります。
1.独身男性である。
2.安定した職業についていないか、所得が低く生活苦がある。
3.性格的には、子供の頃から粗暴である。
4.家庭や社会から孤立している。
以上ですが、今回の秋葉原での事件も、犯人にピタリと当てはまります。
このような状態で、犯人は孤独で貧乏な生活に不満を持ち、そのやり場のない怒りを社会のせいにして強い恨みと憎しみを積み重ねて行きます。
そして、いつしか「社会」の象徴である「不特定多数」を恨むようになり、それに向かって犯行を実行してしまったのです。
人間は、今の自分の状態を受け入れて、不足していることがあれば自らの努力で獲得していかなければなりません。
でも、本来優秀だと思っていたはずの自分が、社会で成功しないのは、やり場のない本人にとって、それは社会の制度のせいだとしか考えられなかったのです。
他にに甘えることができなくて、孤独で苦しみ絶望的となり、社会に対して抗議する意味で犯行を行います。
このような事件のあとは、恥ずかしくて本人が言い出せなかったことや、犯人の問題に気づき親身になって理解する人が周りにいなかったことなど、あとになってくやまれることがたくさんあります。
犯罪心理学では、殺人を犯す人は「殺人者精神病」であると考えます。
その「殺人者精神病」を学ぶと「血の酩酊(めいてい)」という言葉がでてきます。
これは、一度殺人を犯して血を見ると異常な興奮状態となり、後は夢中で殺人を続けるというものです。
あとで、犯人にその気持ちを聞いても何も覚えていないようです。
原始人が動物を狩っていたときの殺戮(さつりく)のエクスタシー(快感が最高潮に達して無我夢中の状態になること。恍惚(こうこつ)。忘我。)がよみがえった、先祖帰りの現象と言われていますが、サタンに洗脳されたと言えるでしょう。
また、これらの残酷な殺人事件は、テレビ・新聞・インターネット等のマスコミで広まりますが、それに共感してまねをしようとする模倣犯(もほうはん)があらわれる危険があります。
また、自分も事件を起こして、それらのマスコミの報道で自分の訴えを通そうとも考えるのです。
インターネットが発達した情報化社会において、マスコミのあり方にも細心の注意が必要なのです。
これらの一連の動きを観て、同じような犯行をするかしまいか、悩んでいるグレーゾーンと呼ばれる人たちがたくさんいる中で、実際に犯行におよぶのは氷山の一角です。
社会が、悩み苦しむ個人に焦点を当てた政策をとらない限り、このような、通り魔的大量殺人が今後もあとを断たちません。
これは、イエス・キリストが、再降臨される前の末日の危険な状況です。
素晴らしい家庭で、愛に満たされて育つことは大切なことであり、大人になっても愛は必要です。
その一番大切なものが、崩壊しつつあるのです。
主なる神イエス・キリストは、これらの現象を通して、人間には何が必要なのかを知らせています。
家庭でお互いの愛を育むことは大切です。
家族は永遠です。


